【書評】カウンセラーは何を見ているか
目次
第1部 すべて開陳!私は何を見ているか(私は怖くてたまらない;私はいつも仰ぎ見る;私は感情に興味がない;私はここまで踏み込む ほか)
第2部 カウンセラーは見た!(密やかな愉しみ;息切れは気持ちいい;無音劇場;縦ロールとカルガモ ほか)
プロの臨床心理士として30年以上のキャリアを持つ著者が自らの仕事について語ったもの。
=第1部 すべて開陳!私は何を見ているか=
<カウンセラーとは?>
「バーのクラブのママ、占い師、新興宗教の教祖を足して三で割り、専門性という装いをまぶした」存在。
多様なキャラが必要。面談室はドラマの舞台であり、それを場に応じて演じ分ける。演技的だったりオーバーアクションであることも時には必要。
<燃え尽きる?>
燃え尽きないようには、
これは彼女の師匠の「ほんとうの私なんてない」「真の自己より、着脱可能な自己を」の教えからくる。
患者の話は「本を読むようにファイリング」
<カウンセラーの姿勢>
患者から「ワンダウン」して、「仰ぎ見る」。
ただでさえクライエントは「自分で考えた末の蟻地獄」にはまっている。
そこに「上のもの」としてカウンセラーが現れることは主体性の放棄を促す。これがカリスマカウンセラーを生み出すカラクリだがこれはクライエントの依存を促す。
それを防ぐためにも、カウンセラーの姿勢が実はクライエントによって査定されていることへの畏れと謙虚さは必要。
感情を特権扱いしない。
状況も含めた多様なダイナミズムが大事。
語られた内容をめぐって頭脳をフル回転させる。
相手の息遣い、空気の流れ、間合い、語る速度までを瞬時の判断で選び、決定しなければならない。
一種のチューニング。
極度の緊張と覚醒が要求される。
あからさまな強制はよろしくない。
それによってコントロール不能な外海に泳ぎ出してしまうより、「自分で選んだ」満足感のもとに、生簀の中で泳いでもらう。そして、生簀ごと望ましい方向に移動させる。
性的マイノリティや、DV、依存は社会の枠組みや家族のあり方と無関係ではない。そのために外向きの視点を与え、問題を再定義し、捉え直す。
だが、これが難しい。なぜなら自分を見つめるだけの方がラクだからである。
しかし、このマクロとミクロの視点のバランスを保ち、クライエントが何を言っても「私は決して驚いたり批判したりしません」という姿勢を保つためには、日常生活において、多重・多層的な世界を生き、判断の軸を広げることを厭うてはならない。
<集団療法>
個人療法とうってかわって、支持や方向性を明確に打ち出し、「家族の危機」を回避する。
グループでは対個人と違って、カリスマになるリスクが薄まるからである。
<全てはお金のため>
1995年に新宿にカウンセリングセンターを設立した。
心理士のみの相談機関で20年間生き残るのは至難の業だった。
結局、病院に頼らない「脱・医療」となったが、経営の責任、脱医療の援助の構築が一気にのしかかってきた。
=第2部 カウンセラーは見た!=
心筋梗塞を起こし、患者として入院した、入院先の様々な人間模様を綴っている。
<感想>
特にフェミニストではないのだが、気づくと信田氏の著作を手に取っていることが多い。また、ご本人も一度講演でお見かけした。実際のお姿も、著作の中でも女闘士を思わせる雄々しい発言がめだったが、自身の内側を開陳するこの著作では意外に慎重で、いい意味で計算している姿勢が目立つ。
だが、男社会の典型である医療から「脱・医療」したように男性社会への反骨も息巻いている。
第二部の「患者観察日記」は彼女の人間観察眼の鋭さが光り、小説風で楽しく読める。プロだからこその観察眼なのか、この観察眼があるからプロなのか。多分、鶏と卵、もしくは両の車輪みたいなもんだと思う。